世界がひろがる時間
ちょっとしたひと声が、その先の運命を大きく変えることもあるんです――
(ひょっとしてオレ、世界で今一番困ってる日本人?)
留学に来てまだ日も浅いシドニー。住んでいる街の向いの島まで、フェリーで初めて遠征した帰り道だった。
(往復チケット買ったのに…最終便が出ちゃってる!)
目的だった動物園があまりに楽しくて、帰りの時刻をうっかり失念していた。
港には他社のフェリーも来るが、すでにチケットを手にした人たちだけを次々と飲み込んでは出航していく。日はどんどん暮れてくる。
「What’s wrong?」
よほど不安な顔をしていたのか、上品そうな初老の婦人が声をかけてくれた。隣にはコアラのぬいぐるみを抱いた孫らしき女の子。
今や紙切れとなったチケットを見せ、オレは逃した出航時刻の印字を示す。
「I … lost … ferry」
つい1カ月前まで日本語だけの世界で生きてきたオレが、今の心細さをうまく伝えられるはずもなく…思わず声がうわずる。
「Oh! OK, I understand.」
婦人は笑顔でオレを別の船会社の窓口に連れていき、チケットをサッと買ってくれた。
この時の無力さが身に沁みたオレは、その後かなり真剣に英語習得に取り組み、イザというときにはなんとかなる、程度の自信もついた。
先週、オレの職場にシンガポール支社から1人の社員が赴任してきた。学生時代から日本語専攻で、会話もペラペラだという。実際、日本語での電話の受け答えや雑談も流暢で、素直な性格もあってかすぐに職場にとけこんだ。
そんなある日、ガランとした会議室にその社員がポツンといる姿を見かけた。難しい顔でさっきの会議資料を何度もめくっている。視線を感じたのか、ふと顔を上げてオレと目が合うと顔を赤くした。意外な反応にちょっと驚いたが、次の瞬間オレはこう口にしていた。
「What’s wrong?」
「日本語は話せても、漢字の読み書きはまだ苦手…それが言い出せなかったんだよね、あの頃」
オレのクルマの助手席で、照れくさそうに言う彼女。
「あの時、声をかけてくれたあなたに打ち明けてから、ずいぶん楽になったんだ」
「そのまま会議資料の復習タイムになったよなあ」
「そうだったね」
優秀と評判の彼女にも弱点はあった。でも、それがわかってからオレは、必要なシーンでさりげないサポートを心掛けるようになったし、今も一緒に働いている。
そして、最近は、たまにこうして二人で出かける、なんてことも。
「疲れてない?そろそろ運転変わる?」と彼女は微笑んだ。
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